アーチの奥にある「1帖の秘密基地」から、日々のささやかな記憶をゆるりと綴るエッセイ
都心の喧騒から少し外れた、とある老舗ラーメン屋。 使い込まれた木目のカウンター、鼻をくすぐる濃厚な豚骨と醤油の香り。その日、夫と数年先輩の刑事は、昼のピークを過ぎた店内のカウンター席にひっそりと腰を下ろしていた。
「おまちどう」
どんっと無造作に置かれた浅葱色のどんぶり。熟成された琥珀色のスープには、鮮やかな深緑のわかめが波打ち、器の端からはピンク色のチャーシューが顔を覗かせている。おもむろに、割り箸の先で中央に鎮座する大判の海苔をそっとめくってみる。
するとそこには、頼んでいないはずの「煮卵」が、つるんと丸々ひとつ身を潜めているではないか。
「(これがあの……!)」
夫は息を呑んだ。弾かれたように顔を上げると、もうもうたる湯気の向こう、てぼ(深ざる)を握る店主とふいに目が合った。互いにほんのわずか顎を引く、一瞬の、無言の目配せ。
カウンター越しに長年客を見つめてきた店主の眼力は、ふとした視線の動きや佇まいから彼らの「本職」を嗅ぎ取るのだろう。だが、ここで「ありがとうございます」と頭を下げるのはご法度だ。
感謝は胸に秘め、何事もなかったように食べ続ける。それがこの店における暗黙の了解であり、不器用な男たちの美学なのだ。
店を出た後、先輩はまるで昭和の刑事ドラマから抜け出してきたかのようなセリフを吐いた。
「先代のおやじさんからはあったけど……息子さんの代になってからは、初めてだな」
なぜ店主が刑事にだけそっと煮卵を潜ませるのか、その真意は定かではない。しかし、事情を知る者たちの間ではいつしか、「あの煮卵を出されてこそ、刑事として一人前と認められた証」というジンクスだけが、密かに囁かれているらしいのだ。
そのあまりに出来すぎたハードボイルドな世界観に、私は思わず吹き出してしまった。けれど、常に張り詰めた日常を生きる彼らの世界には、言葉を交わさずとも心を通わせる「粋な交差点」が存在するのだろう。
しかし、そんな「無言の美学」を愛す夫だが、妻の私から見るとクスッとしてしまうツッコミどころも満載である。 一番のギャップは、彼と「メディア」の向き合い方だ。
街頭インタビューなどでカメラを向けられると、彼は絶対にフレームインしないよう、見事なステップと危機回避能力でその場を立ち去る。 しかしそのくせ、現場での姿がニュース番組の背景で一瞬でも放送されようものなら、ご丁寧にそのYouTubeのURLをLINEで送ってくるのだ。
「ねえ、ちょっと不謹慎じゃないの?」
私が呆れ顔で眉をひそめると、夫は悪びれずにこう言うのだ。
「頑張ってるところを見てほしかったの」
あぁ、普段どんな様子で働いているか知る由もない妻に、仕事をしている自分を見てほしかったのか。子どもみたいな理由だが、スッと腹に落ちた。
防衛モニターとして自衛隊の活動を間近で観察する機会を経験してからというもの、日本の安全を守る人々の「素顔」を、以前より身近に感じるようになった。過酷な現場と、街の人情が交差する彼の日常。
今夜帰宅したら、夜食のラーメンには何も言わずに、煮卵を海苔の下に隠して出してみようか。私が店主のように無言で顎を引き、スッと目配せをしたら、彼は一体どんな顔をするだろう。
そんなことを思い巡らせながら、私は再び、本に囲まれた秘密基地のデスクで執筆画面に向かうのだった。

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