アーチの奥にある「1帖の秘密基地」から、日々のささやかな記憶をゆるりと綴るエッセイ
夕暮れのオレンジが濃い群青色へと沈んでいく頃、私は見事な片足立ちを決めていた。
目指すは脱衣所。片方の靴下をつま先から引っ張りかけ、Tシャツを丸めて椅子に放り投げ、さあ最高に無防備な姿へ――というその刹那、ダイニングカウンターのスマホが震えた。
画面には「マサ子」の文字。夫・マサキからの着信だ。
時刻は17時過ぎ。現場でゴリゴリに働く警察官の夫から、こんな時間に連絡が来ることはまずない。怪我か? 急な泊まり勤務か? 脳内であらゆる予測を走らせながら、私は片足立ちのまま通話ボタンをスワイプした。息を呑んで耳に当てる。
「……もしもし?」 『あ、聞こえた。今大丈夫?』
どこかこもったような、布擦れの音が混じる低い声。
「うん、大丈夫。何かあった?」 『ん。いや、イヤホンマイクのテスト』 「……は?」 『ご協力ありがとう。じゃ、張り込み続けまーす』
プツッ。
無機質な電子音が響く薄暗いリビングで、私はスマホと虚空を交互に見つめた。今、細い電波の向こう側で、彼は息を潜めて誰かを監視している。ドラマのようなヒリヒリとした緊張感の中で。 そしてこちら側では、妻が片方の靴下を引っかけたまま、アホみたいに突っ立っているのだ。
緊張して損した。
数時間後、無事帰宅した夫にぐいっと近寄る。 「ねえ、夕方のあれ。張り込み中だったんでしょ?」
彼は冷蔵庫からトマトジュースを取り出し、極めて真面目な顔で答えた。
「あー、あれね。初めて使うやつだったからテストしたかったんだけど、班の人間にかけたら『おっ、対象者確保か!?』ってぬか喜びさせちゃうでしょ。だから水稀にかけた」 「ぬか喜びさせちゃうでしょ、じゃないんだよ。こっちはいらぬ心配をしたんだけど」
電話に出られたからよかったものの、もし着信に気づかず後から折り返していたらどうなっていたか。間違いなく彼は張り込み中で応答できず、私はさらに不安を煽られていたに違いない。
この「ズレ」には、以前にも直面したことがあった。
婚約して半年も経たない頃。突然、彼からの連絡が途絶えたのだ。LINEを送ってもいっこうに既読がつかず、連日のように報じられる物騒な事件が頭をよぎり、柄にもなく初めて生存確認のメッセージを送ってしまった。
それから丸一日と少し経った夜、ようやく連絡があった。
『勤務中まったく休憩取れなくて、帰ってから今までめっちゃ寝てた!遅くなってごめん』
聞けば、朝から36時間ぶっ通しで働き、帰宅するなり泥のように眠っていたらしい。たった8時間の勤務で体力を使い果たす私にとって、その数字はもはや正気とは思えない。
「無事なら大丈夫。何かあったのかと心配になっちゃっただけだから」
そう送ると、わりとすぐにこんな返信が届いた。
『自分に何かあったときは、水稀にも会社から連絡がいくと思うから、安心して』
不用意に肩書を明かさないよう、彼は普段から警察を「会社」と呼ぶ。とはいえ、あろうことか文末には、キャラクターがにっこり笑っている絵文字まで添えられていた。 どうやら、会社員として働くよりもずっと死に近い現場にいる彼の「安心」のベクトルは、私たち一般人のそれとは大きくズレているらしい。
でも、まあ、いいか。 あれこれ考えず、警察官の妻らしく、どんと構えていよう。浴室から聴こえる夫の鼻歌をバックミュージックに、私は背筋を伸ばして胸を叩いた。
次に彼から電話がかかってきたときは、せめて両足の靴下をしっかり脱ぎ終えてから、堂々とマイクテストに付き合ってやろうと思う。
ランキングに参加しています。
クリックしていただけると、更新の励みになります。

