アーチの奥にある「1帖の秘密基地」から、日々のささやかな記憶をゆるりと綴るエッセイ
私がまだ二十代だった、ある冬の日のことだ。底冷えする平日の昼下がり。会社の目と鼻の先にあるいつもの百貨店を通り過ぎ、冷たい風から逃れるように、ふと見知らぬ定食屋の暖簾をくぐった。思えばそれが、あの小さな悲劇の始まりだった。
引き戸を開けると、むわっとした熱気と出汁の匂いが押し寄せてきた。店内はスーツ姿の男性たちでひしめき合い、人口密度は驚くほど高い。私は店員に促されるまま、ぎゅうぎゅうに肩を寄せ合うカウンター席の、わずかな隙間に身を滑り込ませた。両隣の邪魔にならないよう、息を潜めて小さくなる。
壁の品書きを眺めると、魅力的な日替わり定食には無情にも「売り切れ」の札が下がっていた。出遅れたのだから仕方がない。私はこの場における最善の選択として、無難なカレーライスを注文した。 猫舌で食べるのが遅い私にとって、スプーン一つで胃に流し込めるカレーは、昼休みのタイムリミットと戦うための頼もしい味方だ。これなら熱々と格闘しながらでも、迅速に完食できるはずだった。
だが、この選択が間違いだった。
運ばれてきたカレーは、何の変哲もない正統派。問題は、小鉢に鎮座する「殻つきの温泉卵」だった。私は過去、これを自力で割った経験がない。 ツルンと剥けるゆで卵とも、パカッと割れる生卵とも違う、厄介な存在。頭の中で入念なリハーサルを済ませ、ゴクリと唾を飲みこんでから手を伸ばす。
小鉢の縁でコンコンと叩いてみたが、一向に割れる気配がない。左右では、働き盛りの男性たちが一心不乱に飯をかきこんでいる。その猛烈なスピードのなか、私一人が温泉卵を相手に泥仕合を演じていた。
焦りが募り、思い切ってやや強めに卵を打ち付けた。 ピシッ。 ひびが入った。よし、ここからだ。私は両親指に力を込め、殻をこじ開けようとした。
しかし、力の加減を致命的に間違えていたらしい。
グシャッという無惨な音とともに、柔らかすぎる白身の一部が行き場を失い——勢いよく宙を舞った。
あっ、と思った次の瞬間、全身の血の気が引いた。 私の手から放たれた白身の飛沫は、無情にも、右隣で静かに食事をしていた男性のスーツへと着弾していたのだ。ネイビーの生地、左胸のあたりにこびりついた白い染み。どう弁解しても、私の落ち度である。
「も、申し訳ありません……!」
咄嗟に出た謝罪に、隣の男性は「え?」と不思議そうな顔でこちらを向いた。引きつった私の視線を辿り、彼は自分の胸元へ目を落とす。そこには、つきたてほやほやの白身。
「あ、いや、これ、自分が飛ばしたから」
なんと彼は、自分が食べている最中にこぼしたものだと勘違いしたらしい。どこまで人がいいのだろうか。私は慌てて首を横に振った。
「違います。私が温泉卵を割る時に飛ばしてしまったんです。本当に申し訳ございません。クリーニング代をお支払いします」
深く頭を下げる私を見て、彼は驚いたように目を丸くし、そしてふわりと微笑んだ。
「そうなの? でも、大丈夫。大丈夫ですよ」
事態に気づいた店員が、新しいおしぼりを差し出してくれた。男性はそれを受け取ると、ササッと手際よくスーツを拭き、何事もなかったかのように再び箸を取った。
いや、大丈夫と言ってくれたけれど、全然大丈夫じゃない。動物性タンパク質の汚れは、固まるとひどく落ちにくいのだ。クリーニング代の申し出もやんわりと流されてしまい、私は申し訳なさで胃が縮み、カレーの味がまったくわからなくなってしまった。
やがて、男性がお会計のために立ち上がった。私はすかさず顔を上げ、もう一度深く頭を下げた。 「あの、本当にすみませんでした」 彼は問題ないというように首を横に振って、軽く会釈までして、店を出て行った。 普通なら「おい、なんてことしてくれんだよ!」と胸ぐらを掴まれてもおかしくない状況だ。それなのに、あの温厚な対応。現代のカウンター席に舞い降りた聖人なのだろうか。
しかし、私の脳内では、彼が去った後の悲劇のシミュレーションが止まらなくなっていた。
会社に戻った彼は、後輩から「先輩、なにスーツ汚してんスか」とからかわれるかもしれない。もしこの後、重要な取引先との面会があったら? 卵の染みをつけたままプレゼンをするのだろうか。 いや、それよりも深刻なのは家庭内だ。
『あなた、この染みどうしたの?』 『温泉卵が飛んできて避けられなかったんだ』 『はぁ? どういう状況よ!』 『昼御飯を食べている時、隣の席の子が……』 『なんでクリーニング代をもらってこなかったのよ!』
私のせいで、見知らぬ奥様にまで叱られてしまうかもしれない。夫婦の危機すら招きかねない。
どうか、あの優しき男性にいいことが起こりますように。宝くじが高額当選するとか、取引先で大口契約が取れるとか、とにかく特大の幸運が訪れますように。 私は、初詣やお墓参りのときよりも遥かに強く、深く、念を込めて祈った。
心の中で渾身の祈りを捧げ、一呼吸置いてから、私は再びスプーンを取る。すっかり冷めてしまったカレーを胃に流し込みながら、固く心に誓った。今度の休みは、家で温泉卵を綺麗に剥く練習をしよう、と。
――ちなみに後日。 気になって「殻つき温泉卵の正しい割り方」を調べたところ、衝撃の事実が判明した。
「割る前に、十回ほど振る」
たったこれだけで、中の白身が殻に張り付くのを防げるのだという。となれば、周囲に飛び散ることもなく、小鉢の真ん中へ華麗に着地したはずなのだ。 タイムマシーンがあるのなら、あの日の定食屋へ駆け込み、肩をすぼめる自分にささやきたい。
「とにもかくにも、全力で振りなさい」と。
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